とあるコミュニティがなくなったら、自分の属する場所が消えてしまう現象。例えば年齢がいってきた50代とかになってくると、とあるコミュニティの中でしか生きていない自分の内部表現(フレーム)しかなく、応用が利かない状態になっている。これはその年まで対策をしてこなかった当人が悪いともいえるが、この社会の犠牲者ともいえる。
普通に暮らしていても、複数のコミュニティーに属せる金銭的と、他のコミュニティを探す時間的余裕がない。あったとしても行動しないのじゃないか?というが、学校教育から「同学年、同性別とつるむ」ことが洗脳されているので、これも当人のせいばかりといえない、教育の問題が絡んでいる。
人間関係はそれこそ縁起の交点のように描き出せる。
会社ーAー家庭
みたいな二つくらいしか持ってないと、これが消えたら、自分の存在が消えにかかってしまう。会社(定年)と家庭(離婚)。
趣味の集団、釣り
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会社ーAー家庭
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趣味の集団、読書会
みたいなのであれば、どこかがダメになってもどこかが自分を助けてくれる。しかしこういった人はやっぱり少ない印象。ただでさえ田舎すら都会化し、助け合いが減っているし。
専業主婦の女性でも、似たような現象が起きるというのも聞いた。自分がそこで主婦としてやっていくためにはそれこそ空気を読んで、自分の家の近くの人間とうまくやらないといけない。have toともいえるが、なんとかやりくりしてれば、たまには助けてくれたりする。
ただそこでやりくりしてればご褒美として別のコミュニティがやってくる・・・なんてことはないわけで。人間関係が閉じたもの同士が話す。運良く開いていく場合もあると思うが。
面白いことにウェブ上のSNSでも同様の縛り合いに近い。ゆうこすもどっかの動画で「つながりの時代と言う割に、みんなそこまで繋がれていない気がする」と言っていた。繋がれているような印象だけが思念上を浮いている感じがしている。
知識も経済学と気功、とか身体と気功みたいな、別の知識と別の知識のLUBをとるとこれまでになかったフレーム(ゲシュタルト)が出てきて面白くなる。人間関係も同様で、同じ地域の隣の人同士で話して、新しい人との出会いだ、といったところで、結局、広がっているようで、輪の大きさは大体同じだ。そうではなく、別の集団と出会わないといけない。
日本はここらへん空気の縛りがあるため、「ハブられたら」という怖さ・恐怖が常にある。
ここまで書けばわかるが、これらのコミュニティ問題は
・当人の努力
以外に
・金銭的な問題
・教育の問題
・空気の縛り(世間の縛り)
という自分以外の問題も含まれている。個人の責任も重いが、それだけを全面に押し出して語るのもなんだかなぁ。
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