上野千鶴子さんの本を読んで、気になったあたりまとめ。
こういうのを、「ウィメンズ・ロッカールーム・トーク」と言います。フェミニズムの世界では、「コンシャスネス・レイジング」とも言いました。女が人前で言ってはいけないとされること――たとえば生理やマスターベーションの話を口に出して聞いてもらえる相手がいた、女の経験をコトバにして、分かち合ったということ――その積み重ねが女性運動なのです。
今のあなたには、そんなニーズがないのかもしれない。だけど、「あなたもそうだったの」「実は私もなの」という発見や女同士の分かち合いの場が必要になるときが、いつか必ず来ます。そして、それができたとき、敵だと思っていた女の子が、味方だと感じられると思います。
こういうのは少しだけ理解できる。
少し自分サイドに置き換えて考えてみる。
社会に出て働く緊張・辛さ、この辛さを男サイドからの押し付けと感じて、異性が味方に思ったことがあった。しかし改めて考えると、その辛さを本質的に肌感覚として理解できるのは男性側で、実は敵ではなく味方だったのかもしれない。
働く辛さを女性に話しても「わかるよ」と言いながら、まったく理解している感覚がしないことがある。逆に専業主婦の人間は、男性の協力・夫の「とりあえずの理解」があることを認めつつも「わかってくれない」という言葉を吐く。
しかしながら、この流れ自体が男女の分断によって起きるもので、誰かを味方と示したときに潜在的に、敵ができているような感じもする。
僕によれば、同性嫌悪も異性嫌悪も、分断が元になっている(外人への恐怖・差別、年齢も同様)
上記の文章の「敵だと思っていた女の子が、味方だと感じられると思います。」とあるが、この時に、異性との距離が離れたら正直、本末転倒というか横から横の移動でしかないと思う。
というわけで働く女性に、自分の気持ちを理解してもらったりする経験が必要だと思う。
これまで年長の女たちは、セクハラを訴える女性に対して「みっともない」「見苦しい」「こんなことはいなすのが大人の女」と言ってきたわけよ。
「自分が力を持った時に変えてやる」と言っても、あなたが上に行った時にはとっくにあなた自身が変わってるよ、って思うんだけどね。
不快感って、受忍し続けると慣れっこになる。マルクスは「人間は抑圧し続けるといつかは立ち上がる」と言ったけど、これは嘘。
人間は抑圧され続けると抑圧に慣れる生き物なの。
これは正しい。思考までもホメオスタシス固定。抑圧しているといつかは立ち上がる、という場合もあるとは思うが。
以下、特に印象に残ったくだり。
もうひとつ、教科書を決めてくれと言うようにもなりました。私は自分の授業に「正解」などというものがあるとは思っていないので、教科書は原則として決めません。
しかし出席を取ってくれ、教科書を決めてくれ、と要求する学生が現れはじめた。ひと昔まえなら、それは抑圧だ、反動だ、と反発したことを、自分から要求する学生が、時期的には共通一次試験が始まってから現れるようになったと思います。
(P18から引用サヨナラ、学校化社会)
この文脈だけに限れば昔より、教育熱心なバカ大人が増えて子供サイドの抑圧が強くなっていると思われる。
しかし何が洗脳という基準はなく、スカートの丈のような部分もある。