オンラインアジール作りとヒーリング

認知科学や能力開発を使いつつ、内部表現書き換えやってます。

ハイパーラポールからネガティブラポールへ、認識次第でいったりきたり!?(完璧な親っていますか)

今日はこの1冊をメインに記事を書く

先日、2018年に出された岸田秀さんの本を立ち読みしていた。著者は神経症で悩んでおり、フロイトの研究から「ものぐさ精神分析」を書き上げるまでの体系を作って(ざっくり要約)、それが回復するまでに至った(らしい。)

その研究の中で、母親への愛情が実はそうでないものであったと気づき、逆に母親に深く憎い気持ちをもつようになったと述べられてある。

この母親の流れを読んだ読者から、「母親を悪く書くのはよせ」とクレームが届いたりしていたらしい。実際は「悪く書いた」というより、岸田秀さん側からしたら「事実を書いた」という認識なのだろう。

 

上野先生の本の中で、いい言葉があった。

ペット愛だけど、愛されたっていう記憶がたしかにある。未熟な親の未熟な愛にふりまわされたという恨みを持っていたけれど、さる方が私にこう言ったことがある。ー「上野さん、世の中に未熟じゃない親っていますか」。なるほどと深く納得した。私の親は未熟なりに未熟な愛を私に注いでくれてたんだって。

P67から引用

岸田秀さんのは、これはまるでハイパーラポールからネガティブラポールの流れになっている。安富歩さんのように親にズバズバ言う人もいれば、マイケルジャクソンのような認識の人間もいる。また自分としては「親に愛されていない」と思ったことはあるが(わりかし長い期間)、今の自分には割と上野さんが言っているような表現がしっくりくる。

しかし岸田さんの書き方が悪い、という風に見えない。そもそも「親を悪く言ってはいけない」などという意見もある種の洗脳のように思う(親孝行なども。)

こうした議論の際、意見のどれかが正解でどれかが不正解のように感じられる。特に、親から愛されていないと主張したい人は、愛されていないという方向で認知的整合性(フレーム理論)をとる。

 

実際は事実は多面的。もし神経症が回復したりすることがあるのならば、自分の意見が絶対的真実ではなく、こういう見方はできるじゃん、となった場合なのかもしれない。

 

以前、岸田さんがある方との対談で

「自分を掘っていって、つまり玉ねぎの皮をむいていって、真実にたどりついたとする。でもその真実の中にもまた玉ねぎの皮が、という可能性がありますよね?」と質問されるくだりがあった。

確かとりあえずの正解のようなものがあり、それにあたるとスッとするんだという回答だったと思われる。

自分的には「自分にとって認めたくない事実・真実を認めた際に(それは絶対的真実でなくとも)身体の力みがとれる」という風にとっている。岸田さんの言葉なんかは、割と親の上に立った(脱洗脳)ともいえるし、ある人から見れば悪く描きすぎだというくらいだから、親のコンフォートゾーンから抜けていないような気もする。この問題は、どっちかが正解なんだ(イコールどちらかが不正解)、という視点に立っていては永遠に解けないように思える。

 

思い出すのはマイケルジャクソンの講演。


マイケル・ジャクソン オックスフォード大学での講演 (和訳) part1/4

パート4まであるのでぜひ最後まで見て欲しい。

父親は難しい状況で、できる限りのことをやってくれた、というのは自身の父親に対する認識でもあり、自身が子供からそう思われたい表れでもある。

マイケルは父親がどういう人間かを見ていなかった、という批判も読んだことがあるが、彼の場合、よく見ていたと思う。「父親に愛されていた」と思い込みたい、という感じには見えない。むしろ(西寺郷太さんも指摘していたが)マイケルがRゆらぎできなかった価値観は母親からの刷り込みの方かもしれない。それプラス、父親から受け継いだトラウマ辺りの歪みが、子供にしか心を開けない辺りに出ているのではないか。

 

個人的にはマイケルが可哀想すぎるので、同情したくなる。が、ジョーの幼少期も想像できないくらい辛いものだっただろう。

 

「完璧な親っていますか?」って話になってくる。苦闘の中でマイケルはマイケルなりの結論を出していったのがなにより、すごいと思う。

 

時代や国に限らず、誰しもが難しい状況に部分があると思う、なぜなら完璧な親に育てられた人はいないし、下に書くけど、完璧な時代なんてないから。 柄谷行人さんが「子育てに成功はない」と言ったらしいが、その通りだと思う。

 

 

本に戻る。

次は世代の話。

それなのに「次の世代のことを考えないお前は無責任だ」と団塊世代は責められるわけ。なんで私が考えなきゃいけないのって、いつも私は言ってる。私は私の世代について考えてる。さぁ、次どうするって問いは、キミが引き受ける問いだ。

P170より引用

 一見、無責任な言葉に聞こえるが、本全体と読んだ感想としては、むしろ上野さんは逆かな、と。少なくとも自分の失敗を、他の世代の責任にはしないという態度がある。

こういうの読んでると自分が自分に対して責任や連帯意識(?)のようなものを持っていないのが、浮き彫りになる感じがする。

自分たちの世代の責任は自分たちでおうから、あなたたちはあなたたちで自分の責任を持ちなさいよ、と。 

古市 こうして話をしていて思うのは、上野先生って現実主義であると同時に、楽観主義者でもあるなぁということです。

上野 そうかも。これはもしかしたら、高度成長期に青春期を迎えた者たちの無根拠な楽観主義かもしれないわね。そしてあなたの悲観主義は、あなたのパーソナリティであるというよりは、物心ついてからずっと不況の中で生きてきた世代のエートスかもしれない。だから、楽観性にも日完成にも、両方とも実は根拠がないのかもしれない。

(P192より引用)

今自分は28だが、今はまだ上の世代にぶつくさ言っても全然OKだが、自分たちが40代になったときに、上の世代を責めてきた論理で責められ出すんじゃないか。特に今の日本の状況だと・・・(っていうかこれを俺らのせいにされても・・・)

多分将来「しらねーよ!」と言ってる思う。自分が若いときは上に責任をなすりつけ、上になったら下のことは知らねー、という思考をしていることに気づく。うーーーーーーーーーーーーーーん。

 

話は変わるが、小室直樹さんや田原総一郎さん(の世代)と戦争、フェミ界隈の人と女性があまりにも差別されていた時代の、どうしようもない気持ちのものが、肌感覚として全然理解できない。

全体読んでいて世代や性別で分断して語るのが強い印象は受ける。この人にはこの人なりに「どうしようもなくこう思う」という強い思い込みは絶対ある。でも面白い。