例えば一人の人間の内部表現を見る時、深い層にトラウマ情報(として)が書き込まれてあると仮定して、それがその人の人格に影響を与える、というのはイメージができる。
しかし国家が、集団催眠でーといわれてもピンと来ないのではないか。「大衆の空気」なるもので、自分一人の体調が悪くなっているということに結びつきにくいような気がする。
つまり国民全体がうつ傾向にあることと、一人の人間がうつであることを臨場感として別物として捉えてしまう。
高岡英夫さんが「1日にたくさんの人間をみても、世の中の膨大な人を一人で支えている感覚になる」というようなことを書いていたが(ならみんなでやれるゆる体操に、という文脈だったと思う)、こういう「一人」と「社会」が結びつきづらいというのはどうしてもある。
また、ここにズレも生じる場合も多い。
例えば経済学を大学生が習うときに、とりあえず自分に身近な例を出して学ぶ。これは肌感覚を作るためには正しいかもだが、これが採用されると合成の誤謬のようなことが起きる。