水俣病に関する本。
毒ー水銀を海に流したチッソ(企業)に対して、訴訟などの活動をしていたが、あるときからそれを辞めてしまった緒方さんの話。
ちょうど今自分が社会に感じていることと似ていたので、非常に突き刺さった。
しかし、十年以上にわたる闘いの中で、私自身の中にいくつかの疑問が起きてきました。
(中略)
「チッソってどなたさんですか」と尋ねても、決して「私がチッソです」という人はいないし、国を訪ねて行っても「私が国です」という人はいないわけです。そこに県知事や大臣や組織はあっても、その中心が見えない。
(P44から引用)
栗原 人は替わるけど役割だけは残っている。
緒方 そうなんです。変わらないのはわらわれと弁護士だけ。だけどおれは人間と喧嘩したかったし、人間の詫びがほしかったんだと思うんですよ。ところがほんとうの人間の詫びではなくて、チッソから出てくる言葉は、会社としての、それも心からの言葉ではなくて官僚の作文みたいなものでしょう。裁判所の判決も、とってつけたような紋切り型の文章。化けものと闘っている、という感じを受けざるをえないわけですよ。
(P183から引用)
加害者を問うているあいだは、自分が問われて苦しむという思いはなかったんですね。闘うぞ、闘うぞ、という感じだけで、攻めてればよかった時代があったわけです。それが、意味を考え始めると、自分に向かってくる。
(P72から引用)
トップが悪い。なら上をすげ替える。替えてもまた同じような人間が出てくる。またそいつが悪いんだという話になる、じゃあそいつから入れ替わったらどうなるか。また、替わりが出てくる。
立場の入れ物だけが発言している。
こういう制度が悪い、こういう政策が悪い、そのルールを変えるために声を挙げていく。ということを何年にも続いてやっていたら、いつの間にか政策やルールのために自分が動いているような気がする。
結局、声を挙げる側も人間として発言していないのではないか。受け取る側も人間として受け取っていないのではないか。
自分がもしその立場にいたら? 自分が安倍家に生まれても、こうならなかったのか。吉田茂の孫だったら? 同じことはしないのか。
実体がない。人がいない。
システムをなんとかするために人が動くということ自体、どこか病的である可能性。人が人をなんとかするために動くのが本来なのに。
著作の中で「魂」の話が出てきた。今の新自由主義、自己責任とは違った形で、「個」を見つめる作業をしたい。