「自己責任論」と「人の価値を生産性で測ること」がだいぶ浸透してしまいました。
僕は、人を生産性で測ることはダメなのではなく、一律の基準で測定することに問題がある、と考えています。一律の基準とはわかりやすいのは学校のテスト。
「この問題に、この答えがある。」、幼少期からこのフレームに逐一慣れていく、答えに合わせられない子が「落第」という烙印(スティグマ)を押されます。
経済は測定できないものの循環
GDPでは、人の幸福は測定できないのは有名な話。景色が綺麗だなぁとか、友達と話せて嬉しいなぁは別に、含まれてません。
実際、経済の巡りはお金の循環ではなく、測定できないものの循環です。
原初的な「おいしい、とか、うれしい」とかね。自分で作ったものを交換する際に、お金を利用しているだけなのに、なぜか主眼がお金の方に行ってしまってます。資本主義洗脳ですね。
お金というのはグルグルまわるものですが、この時、嬉しい・気持ちいいといった気持ちも循環します。
お金は社会の血液 - 経済活動と金融機関の役割 | おカネのミカタより。
物には絶対的な値段はありません。コロナでSwitchが高騰したように、値段は常に変動します。最近は特に人の価値観が変わっているのも感じます。「原価いくらだからー何円」「燃費がいい車」といったスペックよりも、情熱に対して投資する・おもてなしなどの付加価値・サービスに対して、高い金額を払ってますよね。
クラウドファンディングなんかがいい例で、抽象空間(≒付加価値≒情報空間)で勝負、ということです。
人の価値には無限の測定の仕方がある
抽象空間の商品。その一番は、人の考えや視点・意見自体です。例えばTVなんかでもマツコさんが社会に意見を言う。マイノリティの人でしか見えないものがある。その意見・視点自体が楽しみになります。
Switchが高騰したように、「こんな視点があったんだ!」が眠っているはずです。
僕は「人の価値には、無限の測定の仕方がある」と言いたい。人の数だけ視点があるのだから、当たり前です。
学校はオワコン
「学校教育・会社に適応するために自分を殺す」、このやり方は測定の仕方自体を絞る最悪の作業です。
言われてきた子供が「それが大人になることだ」「それが社会人っていうものだ」というレッテル貼りをする側にまわる・・・という負のループがまわっているのが今の日本社会でしょう。
その人でしか考えれらない・思いつくことのできない意見自体に、投げ銭をしたりする世の中がきています。コロナで亡くなる方もいる中、「いい世の中がきた」とは、まったく言えませんが、なんとか生き残りたいと思います。
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最近、プログラミングと複式簿記を勉強中。どっちもわりかし性に合ってる。